イハのブログ

神の名を知ってますか?

終わりの日を生き延びる



いち早く目覚める事で、命が救われる。


ロトの妻のように、塩の柱にされないためには、「覚醒の考察」が重要。


寝ぼけ眼(マナコ)では動きが鈍く、既存の生活に対する未練が生じる。


「終わりの日」とは、「何もかも終わる」という意味である。


「価値観の総入れ替え」・・・


そんな覚悟が必要になる。




■寝言の世界を脱す


言葉を濁(ニゴ)さないと、ブログは消滅させられ、当人の生存さえ危うくなる時代が続いた。


これは「世の神」が支配しているため。


その実情は教えられないから、誰もが油断だらけの中にあった。


(多くの正義漢が葬られた)


世の支配者は、そうした油断を通して仕事をやりやすくしていた。


マスコミと上層部を鬼が牛耳っているため、いとも簡単に民意誘導が行えたのだ。


→ 進化論の隆盛がその一つ


イエスが「敵の只中(タダナカ)」に飛び込んで人々を教えた「あの覚悟」が必要だったのだ。




■王国はすでに来ている?


「神の王国」について、イエスはこう教えている。



ルカ17章 (王国はいつ?)

 20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。

 21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

 22 それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。

 23 人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。

 24 いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。



・・・

イエスは比喩で、活動の「3年半」を話していた。


24節には「人の子 = 雷神」という意味が含められ当時の3年半だけでなく、現代の「ネット社会」が示唆されている。


この時代、既に「人の子」の情報が飛び交っている。


→ 『言葉』が人を選ぶ


※ イエスの実態は・・・「天の言葉(ロゴス)」である。


(ネットの中から選ばれた覚醒者が出る)



こうした事情から、福音書を「そのまま」読めば誤解してしまう。



「私の肉を食べ、血を飲まなければ・・・」という話は、当時のユダヤ人に誤解された。


ここでの『肉』は「活動力」、『血』は「血潮」と受け止めるべきであり、婉曲(エンキョク)表現とは逆。



【婉曲表現】エンキョクヒョウゲン

表現などの遠回しなさま。露骨にならないように言うさま。



イエスの言葉は「ショック表現」とでも形容すべきだろう。


「只中」に関して、こんな言葉が浮かんだ。



【tardy】ターディ

1.(・・・に)遅れた。

2.遅い、のろい。

3.緩慢・遅刻。



「只今(タダイマ)参ります」という言葉の「ただ」には、逆の意味が含められている。


→ ああ!遅れてしまった

  (タダイ・今参ります)




■将来に意味を託して話したイエス


イエスの活動した3年半は、歴史からすれば瞬時。(まるで雷光)


イエス以後は、世の神の独壇場(闇の夜)に戻る。


そんな状況下で「敵の只中」にやって来たイエスは、「雷神」のような瞬時の朝をもたらした。


しかし、その光は「世の神」の支配に戻ったら一度は消滅する。


そこでイエスは、福音書の話を「遠い未来」(夜明け)に繋ぐ必要があった。


様々な工夫を通して。


これもヒント・・・

(先程の22節)



 22 それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。



奇妙に思わないだろうか?


弟子たちは、イエスの死の三日後に「墓の前のイエス」(?)に出会っている。


何日も続いた・・・


「人の子の日を一日でも見たい」・・・と矛盾するのである。



実は、「22」の数字が「モドキの出現」を教えており、世界がそれに騙されてしまうのだ。


本者イエスは歴史を経て「終わりの日」の現代に来る。




■偽者に立脚する世界


「墓の前の主」が本者であったなら、

この聖句と整合しないだろう。



イザヤ9章 (イエスは平和の君)

 6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。

 7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。



平和の君が「終わりの日まで共にいる」と告げているなら、真剣に考察すべき。


※ キリスト教が世界に広まって久しいが、その歴史は「戦争だらけ」。



→「平和の君」が「戦争の君」に変身?



それは、世界中が喧々諤々(ケンケンガクガク)と熱を入れるべき議題である。


国家も民も、鬼の闇夜から脱するため・・・



この目覚めは、終わりの日を生き延びるために必要なのである。