神宮と神社の国
日本には多くの「神社」があり、別の呼び名で「神宮」もある。
その違いは?
順に考えよう。
まず、マタイの聖句がこう教えている。
「人の子は安息日の主である」
(マタイ12章8節)
イエスは、「人の子」という表現を多く使っている。
マリアという母から生まれたので「人の子」である。
その父は?
→ 天の神
これは日本文化がよく理解していた。
→ 田縣神社の祭り
◉天下の奇祭!男性の性器を祀る田縣神社「豊年祭」、伝統の御輿行列を支えるアツい男たちに密着 | CBC MAGAZINE(CBCマガジン) https://hicbc.com/magazine/article/?id=chant-omatsuri-column-23040501
イエスの父はヨセフじゃない。
マリアは処女懐胎であり、その証拠も存在する。
「染色体が半分しかない」
→ ロン・ワイアットの発見
◉ロン・ワイアットが発見した契約の箱には血が付いていた - 時のしるしを読む Signs of the Times https://search.yahoo.co.jp/amp/signsoftimes.seesaa.net/article/395266973.html%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQGsAEggAID
「天の父」から来たと思われる「男性の染色体」が一つあった。
日本の先人は、そうした詳細を理解しており、祭りにも取り入れたのだ。
イエスが「人の子」という表現を使う理由は「神と女」(契約のマリア)から生まれた存在であるため。
つまり、マリアの子宮は神聖な「宮」。
だから「神宮」という呼び名が付けられているという推測もできる。
伊勢は、「イエスの宮」なのだ。
また、伊雑宮は預言者イザヤの宮であると読める。
後世、為政者が歴史上の「偉人」を次々と祀り始めたので、混乱をきたした。
それでも唯一、伊勢神宮は、天の父と地上の女によって生み出された「人の子の宮」という位置付けは揺るがない。
■組織分裂が始まっている
最近、神社本庁への結集がゆらぎ始めている。
◉大激震! 「神社本庁は天皇陛下に不敬極まる」…"こんぴらさん"離脱で離散危機に 本庁への不信がかつてなく増大した (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) https://search.yahoo.co.jp/amp/s/president.jp/articles/amp/36456%3Fpage%3D2%26usqp%3Dmq331AQGsAEggAID
終わりの日が来ると光が差し、色々な認識が発生するためだろうか?
その中に「八幡の宮」の問題がある。
◉『八幡宮・八幡神社』徹底解説。神様・由来・ご利益・神社との違いは? | 開運戦隊ゴシュインジャー https://jinja-gosyuin.com/hachimangu/
「応神天皇を祀る宮」とされるが、はっきりしていない。
私見だが、こう考えている。
→ イエスは「イハ」を父とする
他方、
「ヤハ」を父とするのが八幡宮。
※ 八幡では「嘯吹(ウソブ)き神事」が行われる。
(「嘯吹き神事」でウェブ検索)
この内容は、福音書にそっくりである。
(以下の22節)
ヨハネ20章 (弟子に息を掛けた)
19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
福音書には「イエス」という名が記されているが、トマスのように信じない人物も多かった。
ある時、その人物は「戸が閉めてあった」はずなのに中に入って来た。
※ 日本に来た弟子は、彼を「二枚目」と呼んでおり、「イエス当人ではない」との認識である。
歌舞伎の「二枚目」とは「二幕目」に登場する主役。
トマスは疑ったままだった。
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
疑うトマスを目掛け、「八日後」に同じ「侵入」があった。
26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
トマスは半信半疑だったのか?
いや、信じていなかったと思われる。
※ トマスの福音書が外典として存在するが、そこにはイエス復活の記述がそっくり抜け落ちているのである。
エルサレムの会衆は、「二枚目を信じる者」で構成されていたが、日本に逃げてきた女(会衆)はトマスのように信じない者が集まっていた。
だから「八日後」という記述は、日本へのヒントである。
→ 八幡の宮で「嘯吹き神事」
私見だが、トマスのような民衆に息を吹き掛け、「二枚目」を信じる境地に引き込む仕組みであろうと考えている。
日本には伊勢神宮があるが、その外庭が「カヤパ亭」の庭のようになっていた。
まず内部の崇拝が測られるが、
外庭についてはそのままである。
神は「崇拝と祭司の質」を吟味する。
黙示録11章 (崇拝と崇拝者の質)
それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。
2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。
詳細はまだ不明だが、「二人の証人」は、
→ 出雲族
→ 大和朝廷
このあたりが浮かんだ。
ただし、別の意味も重なっていると思う。
イエスは福音書の中で、このように告げていた。
ヨハネ10章
よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。
2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
「二枚目」は、門を通らずに入り込んだ。
→ 羊を盗む?
戸が閉まっていたら、通常はノックするものだ。
3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
国家の庭を「八の宮」が埋め尽くした「神宮と神社の国」・・・
その羊はこの先、どのような反応を示すのだろう?
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