「屋根に設置する護符」の話
「鬼憑き」という言葉があるが、当人はまず気付かない。
「私に鬼が?」
「まさか」
自分自身が悪霊の巣窟であった場合でも、
人は「まさか私が」と思うのだ。
マタイ26章 (まさか私が)
20 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。
21 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
22 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
23 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。
24 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
25 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。
・・・
22節の数字にヒントがある。
そこをもう一度。
22 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
考えたくない話だから当然かも知れない。
つまり、「22」には「まさか」の意味もある。
イエスが「いや、あなただ」と告げているのだから、「当事者には気付けない」という状況を読み取り、反省の眼を養わねばならない。
■豚の暴走と人の暴走
戦時中の日本を思い出そう。
→ あれは暴走
イエスがゲラサの地で墓場の男からレギオン(悪霊の軍団)を追い出した時、結果的に豚の群れが暴走した。
聖句では「イエスが許可した」となっているが、これには「空白」という意味もある。
→ 「空白」は『イエスの許可』と同義
戦時中の日本は、「我は神国なり」という自意識でふんぞり返っていたが、実は「我は深刻なり」の状況にあった。
「気付け」と告げる正義感が出現したとしても、即座に排除された。
日本は、海に飛び込んで死んだ「豚(トン)でもない群れ」になっていた。
→ 『自分では最後まで気付けない』
これが、歴史の与える状況証拠である。
ユダ・イスカリオテが最後まで気付けなかったように、首を吊ってからでは遅いのだ。
日本は早急に、それを知らねばならない。
■間違った「祟(タタリ)封じ」
過去には多くの「祟封じ」が行われ、そのための社(ヤシロ)も建立(コンリュウ)された。
人が死んでからも、レギオンが当人に化けて「祟り」をもたらしたからだ。
「これは『〇〇』の祟りだ!」
敵対者を葬った人々は、後から襲ってきた強烈な祟りに恐れをなし、「当人」を祀り上げた・・・という痕跡が各地に残っている。
しかしこれは、イエスの教える解決策ではない。
この聖句から、「イエスの許可=空白」と悟った人なら、為すべき事が読み取れるだろう。
ルカ8章 (墓場の男)
26 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。
27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。
28 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。
29 それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。
30 イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。
31 悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。
32 ところが、そこの山ベにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。
33 そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。
・・・
イエスは今、「二枚目」に地位を奪われている。
「二枚目」は当然、「許可」を出す。
それに気付かない国家は、永遠に、悪霊の住処(スミカ)としての縛りと操縦を受け続ける。
もし死にものぐるいで模索するなら、聖句そのものからヒントを得るしかない。
「一枚目イエスの対処」とは?
これだ。
家の屋根に護符(イエスの言葉)を置く。
(天に向け)
→ 底知れぬ所へ行け(意思表示)
※ 意思表示は「石表示」に通じ、「イシ」とあだ名されたイエスの弟子なら知っていたはずである。
日本では家の屋根に、「鬼瓦」を設置している。
これは「悪霊(鬼)が空中を泳いでいる」という知識を持っていた先人が残した対処法。
深刻な悪霊憑きの国家や個人の家には、意思表示が必要となるが、対処法は自分で気付けないから効果的なものを採用できない。
何よりも、四六時中見張っている鬼が、それをさせないだろう。
ならば、死にものぐるいで考えよう。
「鬼支配を脱するには?」
■『家』にイエスの意思表示
看板は通常、人の目線に向けての意思表示。
では「家」が意思表示するなら、どんな形になるだろう?
→ 屋根に設置する看板
それは天空の鬼に向けて設置される。
「底知れぬ所へ行け」(イエスの意思)
こうなると鬼は、その『家』(国家)を縛れなくなる。
もし日本が、ナスカの地上絵のような意思表示を行ったら、大きな変化が生じると考えられる。
災害地区で「SOS」の表示を天空に向けて掲げている映像を見た事があるだろうか?
あれは「空中を飛ぶ者」の目に、強烈な意思表示である。
戦前の帝国日本が、もし「底知れぬ所へ行け」の看板を天空に向けて表示していれば、太平洋戦争への暴走は起きなかったと思われる。
(空白はイエスの許可が出たのと同じ)
日本はまず、国家という住処の屋根に「イエス(家主)の意思表示」をして難儀を逃れるべきである。
個人の家なら、「屋根の上に座るイエス」のような護符が欲しい。
しかし、「鬼憑き自身」がそんな勇断をできるものではない。
『一切の護符を掲げるな』
「鬼」はそう考えている。
「魔霊退散」を願う人でも、「22の縛り」を受けており、「まさか」という気持ちから、効果的な護符は心に浮かばない。
『家の人』が、いち早く目を覚まし「イエスの意思表示」(屋根に設置する護符)を掲げて欲しいと願っている。
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