イハのブログ

神の名を知ってますか?

選択的情報発信



イエスの教えが特異なのは、「相手を選んで伝える」という所にあった。



そのためイエスはよく「大げさ表現」で話した。




ヨハネ6章 (ひどい話)

 47 よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。

 48 わたしは命のパンである。

 49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。

 50 しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。

 51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。

 52 そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。

 53 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。

 54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。

 55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。

 56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。

 57 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。

 58 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。

 59 これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。

 60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。

 61 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。

 62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。

 63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

 64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。

 65 そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。

 66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。

 67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。

 68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。

 69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。




弟子たちは理解者。

深い意味が読み取れた。


弟子のうち「二枚目の主」を信じなかった者が、エルサレムの滅びを生き延びて日本に来た。


(ラクダが針の穴を通った)


この弟子たちは「大げさ表現」に慣れていたから、日本にはそれを理解する感性がある。




■弁慶の立ち往生


「遅かったね」

  「うん、車で渋滞があって」

「あー」

  「立ち往生したよ」



これは、立ったまま死んだ弁慶の話である。



武蔵坊弁慶 - Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9D%8A%E5%BC%81%E6%85%B6



次もその一つ。



「お値段は?」

  「10万円」

「わーっ!目の玉飛び出す」


・・・

(実際は飛び出さないのだが)




「ほっぺた落ちそう」

「猫のひたい」

「ノミの心臓」

「奈落に落ちる」

「片手落ち」



弟子は、イエスの言葉に慣れていた。



マタイ5章

 29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。

 30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。



「ラクダが針の穴を通る」というのも、日本人は「真意がある」と理解する。



また、「私の肉を食べ、血を飲まなければ」という表現を聞けば、こう考える。



「イエスはぶどうの木だ」


それで、イエスの組織(樹木)から啓発を受けつつ生活を営む・・・と解釈するだろう。


しかし、諸国民は表現をそのまま受け取ってしまう。




■岩「ペテロ」の上の教会


イエスはペテロの前でこう言った。




マタイ16章 (岩の上の教会)

 18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。




「岩の上の教会」と聞くと、普通はこんな絵を浮かべる。




◉映画にもなった高さ40メートルの岩の柱の上のチャペルで暮らすグルジアの修道士(動画あり) : 国際 : クリスチャントゥデイ https://www.christiantoday.co.jp/articles/14223/20141008/georgia-chapel.htm




しかしイエスが、「ペテロ」という弟子を引き合いに出した理由は、彼の「立場」について話していたのだ。


→ 岩の上に立場を定めたペテロ




マタイ7章 (岩の上に立っているか?)

 21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

 22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

 23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。




彼らは「岩の上」に立っていない。




マタイ7章

 24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

 25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。




岩の上に自分の家 = 個人の立場



ホレブの山で二度目にモーセに出会った神は、こう告げていた。



「あなたは岩の上に立て」(21節)



出エジプト記33章

 18 モーセは言った、「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」。

 19 主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。

 20 また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。

 21 そして主は言われた、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。

 22 わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。

 23 そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。




・・・

日本語を話す日本人だけが受け取れる示唆である。


『岩の上』に立て・・・

(「岩の上」という名に立場を定めよ)




対極は「砂」。




マタイ7章

 26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。

 27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

 28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。

 29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。




「砂」のヒントは黙示録にある。




黙示録12章 (赤い龍の立ち位置)

 17 龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。[18] そして、海の砂の上に立った。




「砂の上に立つ」のは、「赤い龍」であり、それは御子の敵。




御子はこうして、「選択的情報発信」をしていた。


歴史の彼方から、現代日本人に向けて。