イハのブログ

神の名を知ってますか?

エリシャは冷酷か?



どうにも納得できない人がいる。



◉エリシャによる幼児連続殺人事件 ~話の見た目に騙されるな~ - クリスチャンがひっくりかえる聖書物語 ~イエスが本当に言いたかったこと~(賢者テラ) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054890980046/episodes/1177354054892247004


以下資料より:


聖書の伝える話によると、エリシャは子どもを呪い殺してしまった。しかもその数総勢42人。現代の連続殺人犯など目じゃないほどの重大犯罪である。



※ 以下が聖句。



列王記下2章

19 町の人々はエリシャに言った、「見られるとおり、この町の場所は良いが水が悪いので、この地は流産を起すのです」。

20 エリシャは言った、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」。彼らは持ってきた。

21 エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、「主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう』」。

22 こうしてその水はエリシャの言ったとおりに良い水になって今日に至っている。

23 彼はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、

24 彼はふり返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち四十二人を裂いた。

25 彼はそこからカルメル山へ行き、そこからサマリヤに帰った。



・・・

確かに子供が性悪なのだが、実はこの事件を計画した見えない何者かがいる。


「エリシャの主」は、誰なのだろう。


彼が「子供」を呪っているのは、本来の的に向けていない呪いだと考える人もいるだろう。




■暖かさと真心で読む


天の創造主は、御子と同じなので暖かさや柔軟な対処を望む。


しかし世の神なら、こうした形で動物を使う。




■エリヤが去ってから


「22」節には、エリシャのこんな業績が書かれている。



列王記下2章

22 こうしてその水はエリシャの言ったとおりに良い水になって今日に至っている。


彼の奇跡の背後に神なる存在が寄り添っているという示唆になっているが、


「22」の数字が教えている。


この神は別の神であるはずだ。


記事にはこの感想。



クリスチャンは、ここをどう解釈したらいいか分からないので、「読まなかったことにする」。あるいは、なるべく考えない。牧師も、そうそうこの箇所は礼拝説教の題材には取り上げない。聖なるものをバカにしてはいけない、という教訓であるとしても、失敗の代償が子どもの命だというのは、たとえ話としてやりすぎで不適切だ。


(引用感謝)




■なぜ簡素な記述なのか?


大洪水の話も、納得できない人がいるだろう。


あれほどの大事件なのに、滅びの原因は


「悪くなった」


・・・とそれだけだ。



エリシャの呪いについての描写も簡素にしか書かれておらず、子供がどうなったかが隠されている。


「殺していない」とする見解もある。




◉旧約聖書に出てくる 預言者エリシャとその奇跡(政治・軍事編)ハゲにまつわるエピソードとは? https://www.newlifeministries.jp/elisha_miracles2/


(子供は)バアルの若い預言者たちだと解釈する人もいるようです。しかしこの聖書箇所では複数形の「ナアリム カタニム」となっており、青年ではなくやはり子どもを意味するそうです。

ベテルという町は、北イスラエル王国の悪王アハブによってバアル礼拝(偶像礼拝)の中心となってしまっており、バアルと敵対する主(聖書が言うところの唯一の神)の預言者を揶揄することは一般的に蔓延した風潮で、それは子どもたちにも影響を与えていたと思われます。


この記事の説明では雌グマが子どもを殺したと言われることが多いのですが、聖書は「殺した」とは言っていません。

「かき裂いた」と言う言葉が使われており、これは動物の爪で傷を負わせるというものです。その傷の程度は書いてないのでわかりませんが……。


(引用感謝)



二頭の熊が素早く動いたとしても、逃げ惑う42人もの子供を殺してしまえるとは思えない。


※ おそらく、パウロの時代に「スケワの息子たち」が鬼憑き男に傷付けられて逃げ出したような状況だったのかも知れない。



エリシャは、師匠であるエリヤが天に登るのを見届けてから活躍している預言者なので、


イエスが去ってから会衆に入ったパウロの立場を思わせる。


パウロはイエスの弟子じゃなく、弟子が構成する会衆の敵対者であったところは違っているが、「会衆運営」には技量を発揮した。


そんな、「パウロに寄り添う主」は「二枚目」(イエス?)と分析されているように、師と同一であるとは限らないのである。


このあたりは、ズバリ書けないので個々に判断してもらうしかないだろう。


ただ、イエスの死の三日後に墓の前に立った主に対し、歌舞伎が「二枚目」という暗示を与えており、


「復活したイエス」と断言できない。


会衆の半分は、トマスのように懐疑的だっただろう。



ペテロに任されていた会衆に、パウロが入って異邦人への伝道に率先したように、


エリヤの次に、エリシャの活躍が始まっているのは確かである。



「エリシャは冷酷」と思えるところが、現代へのヒントになっている。


近代・現代の歴史で、キリストの弟子が引き起こした多くの戦争を、イエスの温情で説明できるだろうか?


それは、エリシャの殺戮(子供42人)どころの騒ぎではない。

(関与する神は誰か?の見極めは難しい)


つまり、鬼と戦う者としては、「神の裏表」が「紙の裏表」と同様、「引き離せない」という理解を持っておくべきなのである。