理解が怒りを鎮める
水が火を消すように、「理解」があれば怒りが消える。
ある場所に人が集まっていた。
子供も多く参加していたが、急に男の子のお姉ちゃんが怒りを発した。
「あんた、耳の後ろが洗えてない」
この怒りは、確かに男の子のために発しているのだが。
(お姉ちゃんは完璧を欲していた)
イエスなら、どのように対応しただろう?
男の子に向けて質問する。
「〇〇ちゃん、悪い子になりたいと思ってたの?」
すると、正直な答えが返る。
「思ってない」
お姉ちゃんに質問。
「お姉ちゃんは欠点をなくしたかったんだよね?」
「はい」
みんなに向けて質問した。
「さてソロモンなら、どう裁くだろうね?」
ここで理解が生まれる。
『どちらも悪くないんだ』
■紛争を鎮める理解
日本が世界の司会者になる。
そんな日が近付いている。
その頃に、紛争の火種が消えているとは限らない。
諺を通して気付く事があった・・・
「魚心あれば水心」
辞書の解説:
(魚に心あれば、水にもそれに応ずる心があるの意。
もと「魚、心あれば、水、心あり」の形だったもの)
相手が好意を持てば、こちらもそれに応ずる用意があることにいう。
これが実は、聖書的な理解に繋がる諺に思えた。
「理解」は「理解」と通じ合う。
世界で生じている紛争の火種は「無理解」・・・
この部分に気付くのが最初の理解。
例えば、ある人が一方的に怒りを発してしまった場合、こんな対応がある。
「そんなに怒らなくてもいいのではないですか?」
これが実際、「水心」となって火を消してくれる。
相手の怒りを跳ね返すのではなく、温度を下げてしまうのだ。
それは、「頭を冷やせ」と告げるより、理解者として発する言葉だからである。
■魚心とは?
先人は、「魚」に重ねて何かを表現していた。
→ 霊的存在
目に見えないが、それは周囲を泳いで、時には人の心を操縦する。
霊者は人の脳に「感情」を流し込む能力を備えているのである。
「何故か急に腹が立った」
紛争は、こうした霊的存在の操縦によって、心の水分を奪われるために生じている。
水心は?
カラカラの心から発する「火種」を消す。
イエスの教えは「水心」であり土の民に理解を浸透させた。
※ 例えば、「医者」が発する言葉は理解者の言葉であり、そこに安堵感があるようなもの。
それを後世に残すため、先人は様々な格言を文化の中に嵌め込んでいる。
多くは風化し、『蛇』に逆利用されているのだが、少しでも復元できればと考えている。
(ただし今は、私見の領域を脱していない。)
「そんなに怒らなくても」という言葉は「精神科の医者」が発する言葉に相当する・・・そう思えば、その言葉が怒りを鎮めるのも理解できるのではないだろうか。
■『魚』の頭は単純
地上の霊者は『魚』に例えられている。
その集団は言葉を発せず、脳波で瞬間に意思を伝える。
この意味では「合意」が早いが、個々の意図を切り離して処置できない。
これは「個人責任」という考えに疎いという意味である。
人類の場合、個人の意志は言葉で伝える。
イエスがいつも、「耳のある者」という表現を使っていたのは、そのあたりを強調するためだ。
イエスの別名は「閻魔大王」であり、裁きの日には個々の罪について吟味する責務を果たさねばならない。
つまり、罪は「個人の問題」であり、集団をまとめて裁かないのが天の意図。
しかし、「魚の頭」はそのようにできていない。
意図が瞬時に群れ全体に伝わる世界なので、「個人の罪」を切り離して考える事ができず、全てを「連帯責任」で処理しようとする。
こうした「魚脳」が関与すると、何が起きるのだろう?
「彼らは〇〇教徒だ」
(全て同類)
「教会に行って自爆してやれ」
無関係の人々に選別無く被害を与える。
→ 勘違いの連帯責任
(絨毯爆撃も同じ)
こうした事件が起きる背景には、「魚脳」が大きく影響を与えているのである。
自爆テロの指導者たちはイエス(閻魔大王)の精神とは掛け離れ、物の怪の操りによって動かされている。
近い将来、「耳のある者」(個々の人間)が個別に裁きを受ける時期は必ずやって来る。
(それがイハの裁き)
「魚脳」の言い訳(連帯責任)は通らない。
これをよく理解しておこう。
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