海に移った山
現在の我々は、聖句の成就を見ている。
マルコ11章
23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
陸にあったイエスの「総本山」が、
現在は西洋の宗教となった。
「陸」→ 選民
「海」→ 諸国民
日本は「神道」だが、
「キリスト教」といえば「海の宗教」。
→ 山は海に移った
イエスの予言が成就した世界に、我々は住んでいる。
■イエスは異邦人に接触しない
福音書のイエスは、死を迎えるまで異邦人の道に行かなかった。
ところが死後のイエスは、積極的に異邦人へ踏み込んでいる。
奇妙な態度。
理由は、イエスが二人いるためだ。
生きている時のイエス→ 一枚目
墓の前に出現した主→ 二枚目
日本の歌舞伎からは、奇妙な示唆が受け取れる。
一幕目の主人公を「一枚目」と呼ぶ。
次の出し物の主人公は「二枚目」。
「幕」が降りると、物語が一度終わって、
次の幕が始まるまで休憩がある。
福音書ではそれが「3日」だった。
イエスが死んだ瞬間、「神殿の垂れ幕」が上から下まで引き裂けた。
これこそ、「一幕目が終わった」という状況を天の神が示した現象であり、主人公も終わったのだ。
3日後、墓の前にいきなり出現した人物がいたが、弟子の誰もイエスだとは気付かなかった。
※ 実は、本当に「別人」だった。
彼は弟子の思い込みによって「イエス」と呼ばれるような「思わせぶりな演技」を続けたので、弟子たちは「復活したイエスに違いない」と思うようになった。
現在ではすっかり「イエスの座」に座っているが、歌舞伎での「二枚目」は「一枚目」とは別の役者なのだ。
我々が現在、肖像画などで目にしている「男前」の顔は、歌舞伎が教える「次の出し物の主人公」である。
■歌舞伎はイエスの弟子の流れか?
「一枚目・二枚目」という重要なヒントを与える歌舞伎には、奇妙な出し物がある。
◉だんまり
まるで、「墓の前の主」が「自分はイエスだ」と一言も喋らず、弟子たちにそう思い込ませた経緯に合致する。
イエス以後、福音書のどこにも、「私はイエス」という言葉がない。
これを口に出せば「嘘をついた」という記録が残されるためである。
その心理状態を、歌舞伎は知っていた。
なぜ?
歌舞伎の勢力は、日本に来たイエスの弟子たちと目される。
彼らは、あらゆる意思疎通を「符丁」で行っているが、その理由がある。
黙示録の予言で、女(弟子の集団)がエルサレムから逃げたと気付いた赤い龍は、「その後を追いかけた」と書かれている。
これに恐怖した弟子たちは、大っぴらに正体が明かせなかった。
たしかに今、キリスト教は、「海の宗教」になっているが、
そこは、「世の神の畑」である。
イエスの山は、海に移っている。
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