生きるか死ぬかの分岐点
あれほど有名で、不自由なく生きた人が
→ ジョン・レノン
しかし彼は、自殺未遂の崖っぷちに立っていたという。
泉パウロ牧師のメッセージ
(波乱の人生ジョン・レノン)
https://ameblo.jp/jesus39god/entry-12834296360.html
せっかく命拾いをしたのに、あの最後・・・
何かが足りなかったのだろうか?
私自身の経験から考えてみた。
過去、キリスト教組織に入って聖書を学んだが、結局は離脱。
今になって思えば、この心境だった。
「何か一つ抜けている」
この知識だろう。
目に見えない悪霊が、人を陥れようとあらゆる組織の中に居を構え、生贄になる人物を物色している。
(どんな組織にも当て嵌まる)
自殺志望の人々は、鬼に背中を押され「衝動」に走る。
それを救うのが福音書の教えだが、その命綱を得たレノンが人生を断たれた。
(残念)
ただ、今の私は鬼の動きを知っているから、「自殺願望」が頭に浮かんだらすぐに叫ぶ。
「流し込むな鬼!」
「トットと消滅しろ!」
通常、頭の中に浮かんだ考えは「自分のものである」と思うものだ。
しかし、そうじゃない。
キリスト教世界でも、「鬼の流し込み」は存在する。
そして鬼は攻撃も手掛けている。
■未来を捻じ曲げる鬼
鬼が目に見えないからといって、「存在しない」と結論するのは非常に危険。
聖書では、悪霊を「魚」に例える。
イエスがよく、こう告げていた。
「耳のある者は聞きなさい」
「魚」は「耳のない者」であり、ごく一部を除いて子育てをしない。
冷血で「恥知らず」なのである。
→ 「恥」は「心+耳」
日本人なら、漢字を通してイエスの言葉がよく理解できるだろう。
不思議?
実は日本は、古代ユダヤ人の構築した国家だからである。
遠い先人たちは、イエスから直接の教えを受け、福音書をよく理解していた。
福音書でイエスの食卓に留意すると、その心情が見えてくる。
→ 食卓に乗るのは魚(獣の肉は無し)
イエスは弟子に、「魚」(鬼)を食べる文化を伝えていた。
弟子の多くは「漁師」である。
また、イエスの教えは「量子・コンピュータ」のように「1」と「0」が同居できる。
→ 「曖昧さ」を備えている
(そこが賢人の知恵)
この仕組みは、デジタルを遥かに凌駕する先進テクノロジー。
他方、魚と呼ばれる「悪霊」の思考回路は、「完璧なデジタル」なので、割り切れない答えを許せない。
「安息日を守れ!」
エデンの園でアダムとイブを騙して連れ去った組織は「善悪の知識の木」と呼ばれ、「中間」が存在しない。
だから「魚の神」が関与すると、行いが極端になる。
→ 有罪か・無罪か
→ 処刑か・放免か
人類はこうした鬼支配を受けて来たので、精神的におかしくなっていた。
ジョン・レノンのような満ち足りた人でも、「鬼が憑く」と「生きるか死ぬか」の衝動に付き纏われる。
残念ながらレノンは、鬼の詳細を教えられていなかった。
自分の頭に浮かんだ自殺衝動は、鬼が忍び寄って流し込んだものである。
■御子の教えを忘れた選民
今の日本も、自殺願望の人を救うだけの知識が付与できない国家になっている。
それを取り戻そう。
→ 鬼は神に化ける
節分の豆撒きこそが、日本の真髄。
「中国から来た文化だよ」
確かに、追儺(オニヤライ)は大陸から来ているが、日本の先人は大陸を通って日本に入ったと考える。
「相撲」の文化も、モンゴル地方を通る時期に残したものと読む。
(モンゴル相撲文化を落として来た)
それで、鬼に身構える文化も、大陸に振りまいているはずだ。
(逆輸入という形)
人を生贄にして喜ぶ「鬼の風」に靡(ナビ)いてはならない。
※ 余談:「靡く」は「ナビゲーション」のナビ。 またヘブライ語の「ナビ」(預言者)でもある。
鬼は、頭に考えや衝動を流し込むだけでなく、「偽の預言者」も使う。
(バアル崇拝など)
それが、エリヤとエリシャの話にも出て来るから、用心に越したことはない。
遠い昔の先人は、御子が警告する鬼の関与に敏感だったが、今はお伽噺のように風化してしまった。
それを取り戻そう。
「ジョン・レノンの無念」を晴らさねばならない。
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