神は「きっちり」主義か?
宗教団体を渡り歩いた頃、こんな話を聞いたことがある。
「来月赤字になる」
「どうしよう」
神に祈ったそうだ。
すると、
「あっ! 臨時収入!」
足りない金額が
→ きっちり入った
それで神を確信したそうである。
■「きっちり」はどちらの神?
「善悪の知識の神」という名は、
「厳格さ」にも通じている。
この道路は40キロ制限だから
ここまでのオーバーは許す。
しかしこの速度を一キロでも過ぎれば
「捕まえろ」
これが「きっちり」の神である。
世の神の方針が「きっちり」であるのは間違いない。
他方、日本には「丼勘定」という言葉があり、「いい加減さ」の例えとして少し軽蔑の目で見られたりする。
ところが、「丼」という漢字を分析すると、
→ 「井」の中に「丶」(てん)
人々は、「丶」を軽視するだろう。
しかしそれは「天の神」の意味を持つ。
(「天の神」は→ 「丶」の神)
創造主の名は
→ ヘブライ語: יהוה
(右から左へ読む)
※ 右端の「丶」が神の名の実態であり「天の神」(つまり創造主)の表記である。
ヘブライ語では「イョッド」と読むが、「ヨッド」と略して発音される場合もある。
家の「天井」(てんじょう)は「天上」に通じており、「井」の文字が「天」に共通する。
この事から、「丶」こそが「アメノミナカヌシ」であり、御子イエスに重なっているわけだ。
イエスが常に、「わたしと父とは一つ」と教えている理由も、ここにある。
「井の中の蛙」は「御子」であり「父」でもある。
シンボルは「丶」。
ヘブライ語の「イヨッド」。
(先頭に書かれた「丶」)
短縮された「イヨ」から四国を思い出す。
(神の名が付された地域)
■豊かに与える神
「丼」の文字は、天の神が「丼勘定」で恵みを与え、ケチケチしない存在であるというヒントである。
その懐にいるのが「御子」。
ここから、天の神の名もシンプルだと気付く。
カタカナ表記→ イ
モーセが岩を打って水を出した時、「打てば響く反応」で豊かな水が提供された。
御子イエスが群衆に食事を与えた時の話も
・・・「きっちり」ではない。
マタイ14章
14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。
15 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。
16 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。
17 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。
18 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。
19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。
20 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
21 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。
満腹して、なお余る・・・
これが御子の「丼」である。
「きっちりケチケチの神」との違いを、見分けよう。
しかしこれは、無駄を意味しない。
異邦人の女性が「食卓の下の子犬」の話を通して悟りを示したように、
子どもたちが満ち足り、異邦人にも十分な分け前があり、それもまた余るから動物に分けるのだ。
自然界の仕組みが「丼勘定」だからこそ、小さな動物たちも幸福に暮らせる。
天が意図する豊かさの循環は、人が見習うべき手本。
創造主は有り余る恵みの神であり、
きっちり主義の神ではない。
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