人類開放の朝
人類が囚われたのは「エデンの園」・・・その結果、黙示録の四騎士が乗り進んだ。
それは世の神の勢力であり、その支配が災厄をもたらした。
しかし人類は「囚われ」という現実を理解していない。
心は闇。
聖書全体から読めるのは、人類が「綱引きの綱」であるという状況。
引き合っているのは、「天の神」と「世の神」の二者。
ただ、圧倒的に有利なのは世の神であり、彼らは直接地上を支配できている。
対して、天の神は微弱な干渉しか許されないため人類は「黙示録の四騎士」による勝手気ままな翻弄の中で揺れ動いた。
天から干渉の手を伸ばそうとすれば、地上の神々は大洪水を引き起こし、地上をリセットするほど強引。
あまりの酷さに、天の怒りは頂点にある。
しかし、人類そのものが人質状態であるため、迂闊に手出しができないのである。
■「人類から選ばれたのだ」
「エル」という言葉には「選る」と「得る」の意味がある。
世の神の勢力は言う。
「我らは人類から選ばれている」
アダムとイブによる「選択」が、世の神の勢力(善悪の知識の木)を「エル」の地位に押し上げてしまった。
それは→ 人類を「得る」という結果
地上に向けたあらゆる干渉を遮断可能。
世の神は不都合な情報は人類に与えず、自分たちを神だと信じ込ませている。
生殺与奪も自由自在。
人類が「天の神を求める」という意思を示さない限り、地上勢力が得た権利は揺るがない。
「善悪の知識」を全面に押し出す世の神の組織は「悪くなったから処罰する」というロジックを使う。
天の神は、その不利な状況で自分の子を決死隊として派遣した。
アダムと同等の命を持つイエスが地上に誕生し、このイエスに天の「ロゴス」の心が乗り移った。
■禁止された強制
エデンから続く「自由意志による選択」が合言葉となり、それは「強制」による「矯正」を禁じている。
天の神の権威を持つイエスは無敵だったが、一つの制約があった。
それが
→ 強制(これを禁止)
アダムの「自発的な意思」で成立した世の神による地上支配を「強制」での捻じ曲げは許されない。
世の神がいくら人類を虐げているにしても「崇拝」は強制されるものではないというのである。
「自由意志で選ばせろ」
「矯正は許されぬ」
世の神は、人類から「選ばれし者」の立場にある。
だから態度が大きい。
もし矯正を考えたなら人質の存在がリセットされてしまう。
イエスの話に、どこか縛りを受けつつ話すような感触がある理由は、それである。
人類が、「言われたからそうする」のではなく、「自分の意志で道を決める」という暗黙の了解が存在すると考えよう。
それは、恋愛のようなもの。
聖書は、「神は男」「その民は女」という関係性を教えている。
女性が相手を選ぶのに迷っていても、傍から強制を受けないのと同じ。
選びは自由意志に任されているわけだ。
■ホレブの山は「惚れ不」の山
ホレブでのモーセは、選民の代表として山に登った。
一度目の神は短気。
金の子牛崇拝に落ちた選民を全滅させると息巻いた。
モーセはその民を粛清後、二度目の登山で後の神に惚れた。
「我々と共に歩んでください」
これはモーセの自発的な意思だったが、選民全体が正常時に選ぶ意思を示したものではない。
しかも、「金の子牛」を崇拝していた直後という事情もあり、後の神が前に出る事はなかった。
人類の開放はいつ、どのような形で起きるのだろう。
まず、民衆が「自分の意志」で神の名を呼ぶ事の重要さを知らねばならない。
それが重要だからこそ名は闇に閉ざされていた。
結局、囚われた人類の開放は、やはり夜明けの光が鍵になるのだろう。
「人類開放の朝」を待ち望む。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。